ほっと 笑顔 工房。高齢者・障がい者視点の介護リフォーム。
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なぜ私がケア・リフォームをしたいと思ったのか・・・その理由をお話しします。
突然の父の入院、そして介護・・・

「お父さんが怪我して病院に運ばれたって!すぐに行く準備して!」 1994年6月。幼稚園に通う子どもたちのお迎えから帰ってきた時、伝えられたその言葉と状況を、まるで昨日の事のように思い出します。 大阪から鹿児島に嫁いで9年。3人の子供に恵まれ、自営業の経理事務をする夫の母に仕事を教えてもらいながら、子育てやPTA活動を楽しみ、言葉や土地に慣れてきた頃の事でした。 子供たちを夫と父母に頼み、急遽、寝台特急「なは」に飛び乗って、次の日の早朝、父が運ばれた大阪市内の救急病院へ直行しました。 集中治療室にやっと案内された時、目に飛び込んできたのは、ベッドの上の様々な機械に繋がれた父の姿でした。傍らにいた母は憔悴したように父の手を取り、黙って父の顔を見つめていました。父が73歳、母が69歳の時でした。 実家の前の畑にある植木の手入れをしていて、渡した板を踏み外し、2m下の畑に頭から落下、頚椎損傷により首から下が動かなくなっていました。 それから11年間、あの日病院で見た母は、そのまま父の手を取り、看護のつきそいと介護の日々をひとりで奮闘してきました。 私達子供は皆遠方に家庭を持ち、年に数回しか帰れず、介護の補助にすらならない状況で、母ひとりに頼っていました。 そんな中、2000年に始まった介護保険法により、多くの方々やサービスに支えられ、助けられ、励ましていただきました。この法がなかったら、子供や親族だけでは不充分で、夫婦共倒れになり、父も、もっと早くに世を去っていたかもしれません。

母までが・・・身を裂かれる思い

2005年、母は、長い間の介護疲労と、父を亡くした後、”生きがい”、”生きる支え”をなくし、空ろな日々と心身の不安定が重なり、床につく日が多くなっていました。 母は私達に心配をかけまいと、忍耐強く何も言わず、見かねた近所や親戚の方が面倒を見て下さっていました。 私は目の前の生活中心で、子どもたちの受験や自営業の会社のことで多忙なため、実家のことをついおろそかにしていました。 そんな中、母の状態が思わしくないと聞き、我が身を振り返り、母に申し訳ないと思うと同時に、父にも申し訳ないことがあると気付きました。 父は生前、思うように身体が動かず、いろいろな方のお世話にならなければ何ひとつ自分でできないことを悔やんでおり、私はその父の辛さ、思い、日々の感情にふれないようにしていました。 プライドの高い父は、なぐさめや励ましの言葉をかけられたら怒り出すのではないか、神経を逆なでされるようなことは嫌うだろうと。しかし、今思えばそれは私の勝手な思い込みでした。父は淋しかったのではないか。もっと父の言葉に耳を傾けるようにすれば父も日々の辛さがもっと軽くなったのではないかと後悔しました。 そんな中でも、母だけはそばに居て父の無口な性格や、思うように動けず、傷つきがちな日々の感情を深く理解し、ある時は黙って介護を、ある時は明朗に歌い、励まし支えていたことを思い出しました。 その母が、今はひとり”うつ”の症状に苦しんでいると思うと、いてもたってもいられなくなりました。 しかし家庭や会社を放り出す訳にはいかず、できるだけ電話をし、母の話を聞くことしかできませんでした。 身体が2つあれば・・・と何度思ったことでしょう。 遠くに嫁ぐというのは、こういうことなのだと痛感しました。

新たな一歩は高齢者・障害者の方の心に沿う事

そんな時、住設機器メーカーの冊子に、「障がいを持った方の住宅リフォーム」という記事があり、その中に”福祉住環境コーディネーター”という資格を見つけました。 かつて父のために、バリアフリーリフォームをしたことが思い出され、自分もその勉強をすることで、次には母のために役に立てるかもしれない。高齢者や障がいを持つ方々の心に沿う生き方がしたい!、と電気に打たれたような感覚を覚えました。 早速資格取得の資料を取り寄せ、福祉住環境コーディネーターの勉強が始まりました。とはいっても、朝7時から夕方6時まで会社の仕事があり、休みは日曜のみ。朝5時半からは子どもたちのお弁当づくりがあり、夜は家事と子どもたちの習い事・塾の送り迎えがあります。 悩んで捻出した朝4時からの勉強は、最初のうちは眠く、青息吐息でした。けれども勉強するうちにこの資格の真の重要性、必要性に気づき、張り合いが出てきました。この朝勉の習慣は5年後のインテリアコーディネーター合格まで続くことになります。

母のためのリフォームを

高齢者のひとり暮らしには、やはり心配が絶えることがありません。 母が病院からの帰り道、道路で転倒して足を骨折し、要介護状態になってしまいました。 さらに転倒した際、眼の周囲を打撲し、検査したところ白内障が発覚したのです。 その手術までとなると、一人暮らしの為、入院せざるを得ません。 これをきっかけに私達と同居するか、家の再リフォームをするか悩み検討しました。 でも高齢になって住み慣れた家や知人友人、親戚と離れること、子どもと同居とはいえ新しい環境で気を遣う事など、ストレスの方が増えるように思いました。やはり高齢になってからは、住み慣れた環境で生活する方が本人にとっては良いのではと考え、公共・民間の福祉サービスを利用しながら、家の再リフォームをすることになりました。 以前のバリアフリー工事の時と同じ工務店さんに頼み、鹿児島から何度と通いながら、今度は私の提案に沿って、家の中にトイレを造りました。(農家だったのでトイレは外にありました) 玄関と勝手口を改修、扉の取り替え、段差を改修、手すりの取付けなど、使いづらい所を改修しました。冬は、大阪とはいえ極北部で寒さに悩まされるため、寝室・居間にエアコンを入れて、灯油ストーブからの安全対策を取り、母にとって安心・安全・快適な我が家となるようにリフォームしたのです。 「わたしはひとりや、淋しい・・・」と気力を無くしていた母が退院後、このリフォームした心地良い家に住まい、しばらく経った頃にぽつんと言ったのです。 「元気になって、がんばって生きなあかんなぁ・・・」 母は、かけがえのない存在として子どもや周りの人々から大切にしてもらっていることに再度気づく事で、生きる力が蘇ったように思えました。 現在は体調も徐々に戻り、元気に自分の力で一人暮らしを続け、素敵な笑顔で私や孫を迎えてくれます。

皆様の笑顔のために”今できる事を精一杯!”

この経験から、高齢者や障がいを持っていらっしゃる方の心に沿い、より適切な住まいを作るお手伝いをさせていただきたいと、ケア・リフォーム暖家をつくりました。 今までに、病気や事故によって障がいをもたれた方々の物件を手がけさせていただき、感謝の言葉をたくさんいただいております。 高齢や病気・事故などで障がいを持たれ、今の家の中が不便、不自由と感じていらっしゃるのでしたら、一度ご相談ください。 できないからと諦らめず、身体状況に合わせた住まいづくり、介護者のストレスを和らげることのできる住まいや福祉用具を共に考え、工夫・提案をしていきます。 これからも高齢者や障がい者の方とそのご家族が、住み慣れた住まい・地域で安心・安全に生活していただけるよう、誠心誠意取り組んで参りたいと考えています。